良い旅を

旅と珈琲、読書を偏愛する者。

そういえば昔シャウエンに行ったんだった

モロッコにあるシャウエン。通称、青い町。ネットで写真をみてどうしても行きたくなった。そして、大学2年の春休み、僕はモロッコへ飛んだ。

今となってははるか昔にも感じるこの旅を、写真とともに(というか写真だけで笑)振り返りたい。 

シャウエンが青い理由は諸説あって、水に恵まれた町だからや、山に逃げ込んだユダヤ教徒にとって青は特別だったからなどがあるそうだ。

ちなみに、このシャウエンは青い町だけではなく、マリファナの聖地でもあり、猫の聖地でもある。僕が泊まった安宿も、そこらかしこに薬漬けの人達がいて匂いが充満してた。

それでは、写真メインでシャウエン旅行記を始めよう。

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べぇえ〜〜!!

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当たり前の生活の営みがそこにはあった。

学校に向かう小学生もいれば、通りにふろしきを広げて野菜を売るおばちゃんもいた。

僕はこの、「自分にとっての非日常が、ある人にとってはごく当たり前の日常である」という瞬間を感じることが旅の醍醐味だと思う。自分にとっての世界がいかにほんの一部のものであり、世の中にはいろいろな当たり前が独立して存在しているかを思い知る。

 

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モロッコの伝統着であるジェラバ。その背中で一体何を語っているのだろうか。

 

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おしまい。

走ることは脳内メモリに余白を作ること

久しぶりにジョギングをしてきた。海辺を10kmくらい走ってきたが、気分爽快だった。一時期継続的に走っていたが、ふとしたことでそれが途絶えてしまっていた。

そんな折、なぜ久しぶりに走ったかというと、村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」を読み返して無性に走りたくなったからだ。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 

1時間くらいのランニング中に考えたことを忘れないうちに書き留めておきたい。

情報からの断絶が頭に余白をもたらす

ランニング中は情報が頭に入ってこない。入ってくるのは目に入ってくる景色くらいだろうか。

仕事、食事、風呂あがり、いつでもどこでも、テレビやスマートフォンから頭の中に情報が入る世の中になった。ちなみに、僕はこの情報過多の状況が悪いとは一切考えていない。時々刻々と情勢が変わる世の中になってきているのだから、インプットのペースと量を増やすことは合理的な選択と言える。

その一方で、自分の頭で情報を咀嚼する余裕がなくなってきているのも事実だ。人間は数千年前から大して変化を遂げていないというのが僕の持論だ。過去の功績に小さな上積みをすることで、文明は大きな発展を遂げてきた。紀元前の時代にはITも車も存在しなかった。だが、その違いが当時の人との脳のスペックの違いによるものかと問われると、それも違う気がする。だらだらと持論を展開したが、何を言いたいかというと、情報の流入速度に脳の処理速度が追いついていない。そして、脳のメモリがインプットした情報でいっぱいいっぱいになってないだろうか?

情報の質を議論する際に、パレートの法則(80:20の法則)は有効だと思う。

アウトプットの8割は仕入れた情報のうち2割から生まれる。

という表現ができる。

つまり、残りのインプットの大半は本来不要な情報ということだ。にもかかわらず、脳内メモリに書き込まれ、良質なインプットとごちゃまぜになったまま放置されている。

上記のような状態が、情報過多の時代の我々の脳内で起きている現象だ。

前置きがかーーなり長くなってしまった笑

脳内でごちゃまぜになったインプットを整理するのに、ランニングは最適だ。

ランニング中に新しい情報は入ってこない。

ロジカルに説明できるのは実はここまでだ。(笑)

東洋医学は精神と身体が密接につながっていることを前提として成り立っている。そして、まさにランニングはそれを具体的に理解できる手段だ。

無心に走る行為、身体を追い込む行為が、思考を整理させてくれる。

情報過多だった脳内メモリに、いつの間にか幾分の空きスペース生まれる。

余白が生まれるということは、不要な情報が消え去ったということだ。机に座って、情報の取捨選択をすることももちろん大切だ。しかし、あまりに多くの情報が目の前にあり戸惑っているときは、身体を動かしてみてはいかがだろうか?

「無心」に身体を動かすことで脳内から消え去った情報はきっと、あなたに不必要な情報であったに違いない。

情報の仕入れ方より、情報の処理方法に気を配るべき

情報過多の時代に必要なものは、否応無しに入ってくる情報に対して自分フィルターを持っていることだと思う。

適切な情報だけを頭に残す能力、不要な情報を捨てる能力が必要だ。

合理的な方法は、知性を身につけて、自分なりのものさしをもつことだと思う。

そして今回、身体を使って情報を処理するのも悪く無いと気付かされた。

旅に出て圏外に出向いて、デジタルデトックスをするのも良いだろう。

でも、もっと身近な手段として、ランニングをおすすめしたい。

情報を仕入れながら、手軽に脳内に余白を作ることが可能だ。

イメージとして、脳内に余白があることは、そこに良質なアウトプットを書き込めることを意味するのではないか?

 

これから、定期的にラニングをしたいと思った次第である。

 

無計画による産物が新しい未来を切り開く~家族無計画を読んで~

「家族無計画」楽しく読ませてもらった。

 

夫の暴挙、18歳での出産、離婚、子育て。

タイトルにある通り、無計画によって生じる様々な出来事が赤裸々に描かれている。

本来事実だけを羅列すると悲劇のストーリーにしかならないはずだ。しかし、この本を読んでいる間に悲しい気持ちにさせられたのはほんの数回あったかくらい。理由は著者の明子さんが面白い捉え方と思考をしているからだと読み進めていくとわかる。悲劇的な出来事もなぜかユーモアに描かれている(もちろん時が経って、当時に比べ客観視できるようになったこともあるだろう)。

書評を書くことはどうも苦手だ。というか、どう書いていいのかわからない。

本の内容に沿って感想を書いてしまえば、ネタバレになってしまう。

ここでは、この本を一冊読み終えて、明子さんが伝えたかったメッセージを自分なりに解釈してみたい。

世の中では計画的なことは良しとされ、無計画は悪とされる傾向がある。

ただ、この本を通して、無計画も無計画でおもしろいと改めて実感した。

人はなぜ計画をたてるのか?

なにかしらのゴールを決めて、そこから逆算して計画をたてる。つまり、計画によって生じる出来事の大半はわかりきった未来or予想していた未来だ。

逆に無計画というのは、結果が見えない。ゴールを見据えた行動ではないからだ。

でも、その予想もしていなかった結果が次の新しいこれまた予期していなかった行動を呼び起こしてくれると考えると、なかなか面白い人生になると思えないだろうか?

この本はまさに、無計画から生じた出来事に対して新たな(異なる視点の)意味付けをされてきた明子さんの経験談と言えよう。

自分の未来の何割が予測可能で、ほかの何割が予測不可能なのか。10割予測可能を安定安心と捉える人もいる。その一方で、決まり切った人生はつまらないと予測不可能な人生を自ら歩む人もいる。

結局人生の幸福度は物事への捉え方で決まるのではなかろうか。たとえ無計画性によって生じた悲劇的な出来事であっても、捉え方ひとつで面白い人生にできちゃうよ?って明子さんは本書を通じて伝えたかったのではないか。少なくとも、世間一般の慣例に沿って生きることがすべてじゃないと私に教えてくれた。

私の場合、つい最近学生の身分で子を授かり、学生結婚をした。自分の未来は他人の人生に比べたらエキサイティングで予測不可能だろう。

それでも、どこかワクワク感を感じずにはいられないのは、決まりきった人生を好まない性格と、この本を読んで改めて世の中にはいろんな人生があり、捉え方1つで無計画が生んだ出来事を好転させられると体感したからだろう。

一度明子さんには面と向かってお会いしてみたい。育児の話や、人生について、質問してみたいことはたくさんある。

いろんな人生があるんだよと、他人の人生を疑似体験できる読書の効能をまさに実感した一冊であった。

 

 

一部無料で本の内容が公開されているので、載せておきます。

cakes.mu

cakes.mu

 

毎日怒号をあげる近所のママについて考察

向かいのアパートから毎朝、毎晩女の人の怒号が聞こえてくる。

どうやら子どもに対して怒っているようだ。

こら、冷蔵庫を開けっ放しにしない!!!

とか

あんたさっき寝るって言ったでしょう!!寝ないなら宿題の1つくらい終わらせなさい!!

とか、子育て中の親からよく聞く怒り言葉だ。

ただ、その声量が尋常じゃありません。道路挟んだ向かいの私の家まで(しかも窓しめてる笑)聞こえてるわけだから。

そして、いつもそこまで怒る必要ないのになって思いながら、自分は朝の身支度をしている。

怒っているママは、何に対して怒っているのだろうか。

女性の怒りはスタンプラリー方式だ。 目の前の事象にではなく、これまでの不満の積み重ねに女性の怒りは依存している。だから、同じことに対して怒る時もあれば怒らないときもある。男性からしてみれば、理解不能な生き物である。まるで別の生物のようだ。

たまたま怒りの沸点手前までスタンプが溜まっていて、怒号級の怒りの引き金を男の子が引いてしまったなら、かわいそうで仕方がない。

って、、あれ、、、女性の怒りの考察に変わって来ている。

話を戻そう笑

でも、ふと今日は違う思考が頭をよぎったのだ。先日自分のツイートに、@KAWAZOIさんからこのような引用RTをいただいた。

 

 このツイートから自分が人やチームをマネージメントする際に、有効な言葉を学ばせてもらった。

 これって子育てにも有効な考え方じゃなかろうか?

自分が育ててきた子に対して、できないから怒るっていうのは間違いだと思う。できるようにさせるのが親の役目だ。

出来ないことを怒る前に、自分が親の役目を果たしていないことに対して、何らかの考察をするべきではなかろうか。

もちろん小さな子に、「〇〇君ができないのは、私に親としての力がなかったからだよ、私が愚かなんだ」と言うことも違うとは思うが笑

こどもだって怒られたくてその行動に出ているわけではないはずだ。なぜ?どうして?と、そもそもなぜその行動が出来たほうがいいのか、なぜやらなければならないのかをコツコツと問いかけて欲しい。

「親に怒られるから」という動機で、物事を判断する子にはなっていけないとし、怒号ママもそんなことは望んでいないはずだ。

自分の頭で良し悪しの基準を作って、結果としてそれが行動に移せれば、1つのインプットから10のアウトプットを出せる子になるだろう。

子育てをしたこともないのに、子育て論について語ることになってしまった。。。

何が言いたかったというと、

向かいの家のママがうるさい、子どもがかわいそう。

怒りのスタンプラリーの沸点を上げて怒号の頻度を減らして欲しい、そして、子どもに非認知能力を身につけさせて、自分の頭で考える子になってほしい。

そんなとこです。

 

 

 

都市のエネルギーを数式化してみたよ

こんにちは、今週は東京にいます(高城剛の真似事ww)。

東京には3泊するのですが、どこに行っても人、人、人。

しかし、なぜか今回は人口過剰な東京へ感じ方が違いました。

これまでは、この人の過剰さを分散させて、日本全体に生産力をまけばいいと思っていました。実際、地方創生に向けて、地方行政が東京の労働力を誘致しているのは良く聞きますよね。でも、今回ふとホームで大量の人をみて思ったことはそれとは違いました。

この人の多さが、東京という異世界をなんとか保っているのかもしれない

東京のエネルギーはすごいと、訪れるたびに思います。

廃れ行く地方が大半を占める一方で、東京は成長し続けています。

直感的に熱気と勢いがある街、それが僕が思うエネルギーのある都市です。

都市のエネルギーは、以下の簡単な式

都市のエネルギー=人口×若さ(若いほうが数値高い)

で表されると考えています。

これまで行ったことのある都市でエネルギーを感じたのは

ニューデリーメキシコシティバンコクシンガポール>ニューヨーク=リオデジャネイロ

このあたりでしょうか。ニューヨークビリになってますけど、エネルギを感じた都市で最下位なだけで、十二分にエネルギーを感じられるのでご了承を笑

上記に上げた都市って、人口×若さのどちらも、または最低でも片方を満たしている都市だと気付きました。

たとえばニューデリー、それはそれは人が多い。そして、当たり前だけど平均人口も世界とくらべて圧倒的に低い。僕に都市のエネルギー理論に当てはめると、ダントツ上位に来て当然です。

それでは、なぜ人が多く、それでいて若い人達が多い都市のほうがエネルギーがあるのでしょうか?

1.人口について

機械化、AI化が進むとは言え、労働力の中心は人です。

労働力が足し算で計算できるのであれば、人が多ければ多いほうがいい。

生産性って概念が日本での認識が乏しいのは残念ですが、生産力をあげるためには数の原理に立ち返るのが一番手っ取り早い。

結局、その土地のエネルギーは、その土地でどれだけ生産されているかに比例しているのだと思う。

人口は力なりです。

2.若さについて

エネルギーの定義が曖昧ですが、僕は熱気とか勢いがあることだと考えています。

年をとっている方には失礼ですが、若さを失うにつれて、人は思考が硬直化し、変化を拒むようになると思います。

そして、熱気やら勢いは、変化のない場所からは生まれません。日々変化し続けること、それが活気を生むんです。

そういう意味で、若さというのも、都市のエネルギーを生む大事な要因だと思います。

 

では、東京をこのエネルギー式に当てはめるとどうなるでしょう?

人口:上昇傾向

若さ:下降傾向

高齢化が否応なく進み続けることが決まっている以上、東京の都市のエネルギーを維持するためには、人口を増やし続けるしかありません。

つまり、最初に

この人の多さが、東京という異世界をなんとか保っているのかもしれない

 

という言葉は、若さの消失を数で補っているとも言い換えることができると思います。

ちきりんさんが、国家間競争の時代はとうに終わり、都市間競争の時代に突入している。そして、唯一日本で戦える都市はTOKYOである。という発言を以前していたけど、その競争力を維持するためには、この都市のエネルギーを上げる必要があるんだと思う。

 

ちなみに、東京のエネルギーを上げる最適解は

若者をたくさん流入させて(人口↑若さ↑)、高齢者を外に出させる(人口↓若さ↓)ことかな。(数式上であることはご了承ください)

 

さあ、若者よ!!東京に進出するのだ!!!!

 

 

その文章は誰のためにあるのか

すべての文章にはメッセージがある。

文章は誰かに(自分も含めて)、思いを伝える手段だ。

言葉があるから、昔の人達が編み出した考えをベースにして文明は発達してきた。後の世代に伝達する手段がなければ、文明は発達しなかったかもしれない。

文章はベクトルだと思う。

ベクトルは大きさに加えて、向きを持つ。矢印みたいなもんだ。

エジプト古代文明の壁面に描かれている文章は、価値のあるメッセージ(ベクトルの大きさ)と後世の人達へのメッセージ(ベクトルの向き)の2つ意味を持っている。

インターネット上に数多くある文章も読み手を必要としている。

アクセス数を上げることを目標にしている人は、たくさんの人に読まれたいと思っているはずだ。

仮に文章がベクトルであると仮定すると、その向きと大きさを気にかけるべきだ。

向きは読み手

大きさは情報の質の高さ

と捉えることができる。

私は文章を書くのが下手くそすぎるから、一般的な書き手が何を考えながら書いているのか想像もつかない。しかし、多くの人は文章の内容ばかりに気をとられ、読み手を意識した文章を書いていないんじゃないだろうか??

就職活動のエントリーシートの自己PRや志望動機が、自分目線で独りよがりの文章になっていることはまさにその典型だと思う。

さて、ではこのエントリが誰に向けて書かれているのか?

自分自身である。

思考の備忘録、またはあの時お前はこう考えていたんだぞと、将来の自分に向けたメッセージと考えている。

文章の向きを自分にしているのは、一種の言い訳でもある。

誰も読んでくれなくても気落ちしない。

見えない数少ない読者のことを考えずに、ただ好き勝手に文章を書いても許される。

趣味で文章を書くってきっとそういうことなんだと思う。

冒頭に文章はベクトルだと書いたけど、

もし自己完結して問題ないのであれば、文章はスカラー(大きさしかもたない)でいいのかもしれない。

本当に良い文章であれば勝手に人が集まってくるんだろう。

 

 

 

 

 

勝ち「組」になりたいけど、勝ちたいと言わない理由

やったおれ勝ち組やん!!
うわー、おれ負け組や・・・

そんなやりとりを頻繁に聞かないだろうか?

 

勝ち組になりたい

「勝ち組になる」の私的な定義はこれだ。

自分が属する集団において、相対的に高い位置にポジションをとれるようになること。

集団は、マクロな視点では日本社会において、ミクロな視点では自分が属する小さな組織とかであろうか。前者では、大企業就職、社会的地位の高い職業や高収入など、後者では、チームで役職を与えられたり、出世することであろうか?

 

なぜ勝ちたいとは言わないのか?

勝ち組になるという言葉には2つの意味が隠れている。

勝ちたいという欲望と集団への帰属意識だ。

これは想像の話だが、

自分1人だけ年収1億円で、ほかの1億3000万人が年収300万円であれば、それは勝ち組ではなく、一人勝ちである。そして、勝ち組になりたいという人は、その状況では年収300万円を選ぶのではないだろうか?

一方で勝ちたいと言う人は、喜んで年収1億円を受け入れるはずだ。

なぜこのようなことになるのか?

勝ち組になりたい人は、勝ちつつもあくまで自分をどこかの集団に帰属させることで安心感を得たい人たちだ。

一方で、勝ちたいと言い切る人たちは、万が一に一人勝ち状態になっても、孤独を受け入れるだけの勇気を常に兼ね備えているのだと思う。

上を目指し続けることは、ピラミッドの頂上を目指すことだと思う。

つまり、自分のまわりに人がいなくなり、より孤独になっていく。

その孤独を受け入れる力が、あらゆることで登りつめるために必要な能力なんだと思う。

孤独になることは、自分と向き合うことであり、人として成長することではないだろうか?

 

あなたはピラミッドの中間地点で勝ち組として留まることと、ピラミッドの頂上で孤独をあじあうことどちらを好みますか??

ピラミッドの頂上から見る景色はさぞ格別でしょう。

僕はもちろん頂上を目指します。